年に2回、春と秋に「お彼岸」があります。
お彼岸と言えば誰もが頭に浮かぶのはお墓参りではないでしょうか。
でも、そもそもお彼岸とは何なのか?年に2回というのも気になります。
また、なぜお墓参りをするのでしょうか?絶対にしないといけないものなのでしょうか?
仏教にはいくつかの宗派がありますが、宗派によってお彼岸には違いがあるのでしょうか?
今回は特に曹洞宗と浄土真宗の間での意味の違いや共通点についても書いて行きたいと思います。
彼岸とは何か|曹洞宗と浄土真宗の違いは?宗派ごとの意味や共通点も
彼岸とは
彼岸は、ご存知の方も多いと思いますが、春分の日の頃と秋分の日の頃の年2回あります。
具体的には、「春分の日」と「秋分の日」を中心として前後3日ずつ計7日間のことを指します。
特に最初の日は「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸の明け」と言います。
普通のカレンダーにはこんな事書かれていませんから知らない方がほとんどかもしれません。
「彼岸」とは「悟りの境地に到る」という意味の仏教用語です。
ここには、私たちの先祖をはじめとする亡くなった方々が住んでいると考えられています。
これに対して「此岸(しがん)」という言葉があるのですが、これは私たちが今住んでいる苦しみや迷いの多い現世のことを意味します。
仏教では古来より極楽浄土(彼岸)は西にあり、此岸は東にあると言い伝えられていて、一年のうちで昼と夜の長さが同じになり、太陽が真東から昇り真西に沈む「春分の日」と「秋分の日」の二日間は此岸と彼岸が最も近くなる日と考えられていたことから、それぞれが彼岸の中心(中日という)になりました。
特に「秋分の日」は、1948年に祝日法というれっきとした法律によって「先祖を敬い、亡くなった人々を偲ぶ日」という意味が定義されているのです。
ちなみに「春分の日」には、「自然をたたえ、生き物をいつくしむ日」という意味が定義されています。
知っていましたか!?
法律で祝日の意味が定められているって少し意外な気がしました。
ところで「お彼岸」というのは日本独特の習慣(お墓参りも)で、仏教国として名高いインド、タイなどには存在しません。
仏教徒として極楽浄土を願う思いと子孫として先祖代々を偲ぶ思い、さらに農作物の豊かな実りを願う様々な望みや祈りがあいまってこの日本の風土を礎に培われて今に至るのが「お彼岸」の正体と言えます。
浄土信仰について
あなたは仏教徒ですか?と訊かれれば、ほとんどの人は即答で「いいえ」と答えるでしょう。
でも、これはある意味では間違いで、たとえ全く信仰心がなく、仏教についての知識が薄くても自分の生まれた家には、ちゃんと決まった宗派のお寺さんがあってご両親もお祖父母さんもそして自分もやがてはその宗派のお墓に入る・・・ことが決まっています・・・よね。
なのに宗派の信徒だと思っていない、あるいは宗派すらよく分かっていない。
これは外国では考えられないことで理解不能な非常識、でもこれが日本の常識(!?)なのです。
そして、仏教徒という意識はなくても何となく人生が終われば「あの世」に行く、と考えていますよね。
さらに同じ行くなら・・地獄ではなく「極楽浄土」に・・・と知らず知らずのうちに願っていたりしませんか。
この極楽浄土に往生を願う信仰を「浄土信仰」と言います。
何となく聞いたことのあるフレーズですよね。
もう少し詳しく言えば、阿弥陀仏を信仰して、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土に往生を願うことです。
実は、この浄土信仰をしている代表的な宗派が、天台宗、浄土宗、浄土真宗、そして時宗になります。
エッ??全部じゃないのって思いましたか?正解です。全部ではないのです!!(驚)
他にも真言宗や日蓮宗、曹洞宗など有名な宗派は幾つもありますが、厳密に言うと浄土信仰ではないのです。
お彼岸の意味 ~曹洞宗と浄土真宗の違いと共通点~
曹洞宗
例えば、曹洞宗は、その教えの根幹に『坐禅』が存在します。これが圧倒的な存在です。
座禅なくして曹洞宗なしなのです。シャカが坐禅から悟りを開いたことに由来するわけですが、坐禅を通して物事の真実が見えてくると考えます。
創設者の道元は坐禅をしながら修行をしているその場所こそが「彼岸」ととらえ、あえて別の場所にある「彼岸」を求めて修行をして渡って行くということは説いていません。
それより、お彼岸ではお墓参りをして、お供えをし、手を合わせ、清掃をしてということが修行になり、これは一度行ったから良いという薄いものではなく、何度も何度も繰り返し行ってこそ意味があるとされています。
浄土真宗
一方、浄土真宗は、自分の力で努力して彼岸に渡るというスタンスではなく、追善供養もありません。
お彼岸も修行をすべく特別な行事を行うような場ではなく、むしろ日常生活の延長で仏さまの世界に導いて下さった亡き祖先や人々を讃える場としてお墓参りを行い、仏さまの教え(法話)を聞かせて頂く場、やがて還って行く浄土の想いを馳せる機会としての意味合いが重要視されているのです。
共通点
この様に宗派によって彼岸のとらえ方は、様々ですが、たとえ浄土信仰ではない宗派でも「彼岸」や「極楽浄土」の概念は存在し、そこに対する思いを「お墓参り」という形で表すところは『日本式仏教』というおおまかなくくりの中で共通していると言えます。
そして、花より団子ではありませんが・・・お彼岸と言えば忘れてはならないのがお供え物の「ぼた餅」と「おはぎ」ですよね。(どちらも同じものを表しますが、ボタンの咲く春のお彼岸には「ぼた餅」、秋の七草のひとつ「萩の花」からとったのが秋のお彼岸に供える「おはぎ」です)
これこそ全宗派共通と言って良いのではないでしょうか(笑)。
大きなお寺さんの近くには門前町もあって必ず名の通った老舗の和菓子屋さんが存在するものです。
この根強い土着の習慣があることで成り立っている商売もあるということですよね。
人口が減少して檀家も減り、昔ながらの信仰に対する意識もますます希薄になって行く世の中にあって、お彼岸の機会に「法話」などを通じて「お墓参りの意味や先祖を供養することの大切さ」など仏教の知識や生き方を広く流布することは重要ですし、もし「お彼岸」が無くなってしまったら、ますます人々がお寺やお墓に足を運ばなくなるとも考えられます。
これはお寺さん全体の存続にも関わってくる由々しき大問題!!
(老舗和菓子屋さんも大変です!)
まあ、そういうことは絶対にありえませんけど・・・(笑)
でも、だからこそ、宗派に関係なく仏教界全体で「彼岸(特に儀式としてとらえ「彼岸会(ひがんえ)」と表現することもあります)」という『日本式仏教行事』を極めて大切に扱っているとも言えるのではないでしょうか。
まとめ
いかがでしたか?
とてもお彼岸の奥深さをこの記事だけで表現しきれたと思いませんが、宗派によって細かい意味や形式は違うとしても「お彼岸」の大まかな意味や意義を知っておき、それにともなう行動を習慣化することは、そのまま仏教の教え(自分の宗派の)を理解することにもつながる大切なことだと感じました。
皆さんはいかが思われますか?
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